2010年05月10日

歌声に誘われて、波に攫われて

 一筋の歌が腕に絡まって、海辺の散歩道を行くユキヲは足を停めた。歌の発生源を眼で辿ると岩場に腰掛けて凛と響かせる麗しき歌姫が映る。彼女の声はいつも気高く、周囲の温度が低く感じられる程だった。そしてそんな噂はいつも持ち主の気紛れさと共に伝えられる。
 こんな逸話がある。酒姫の歌にけちを付けた酔っ払いの旦那がこう言い返された。「そんなに巧い歌が聴きたいのなら頼んでみては? 海の歌姫じゃなくて神様に。それでも彼女に願うよりはきっと可能性が高いことでしょうよ」
 そう称される音達が今、強く儚げで荒々しくも朧げに砂浜の上を舞う。ユキヲは跳ね廻る歌の邪魔をしないように曲が終わるのを待ってから近づいた。
「やあ。いつもながら見事な歌だね」
「有難う」
 素っ気無いお礼の言葉さえ香り立ちそうだった。「今のは言葉にじゃなくて、歌を中断させないでいてくれたことに対してね」
「邪魔されたことがあるの?」
「そりゃあるわよ。大きな足音を立てながらいきなり走り寄るとかね。お陰でリズムが滅茶苦茶。わたしに近づきたいなら、せめて曲に合わせて来て欲しいわね」
「そんなことって出来るものなの?」
 ユキヲの問いに自信ありげな笑みで応える歌姫は長い黒髪を細い指で払う。両手はそのまま静かに流れ、現れた耳を覆うようにそっと置かれた。
「わたしはこの潮騒に合わせて歌っているわ。寄せては返しながら歌を紡ぐの」
 瞳を閉じて耳を澄ます彼女の姿が完成されていて、少しだけユキヲは見惚れた。
「難しそうだね」
「出来ないなら貴方みたいに動かないことね」
 そう言うと悪戯な笑い方をして、歌姫は瞑られた眼を再び開く。そのとき二人の間に波音が嫉妬したように割って入り彼女の気を惹いた。「あら? 良い潮ね。ちょっと歌っても良いかしら?」
 「勿論」と応える前に音が走り始めるからユキヲは口を噤んだ。波が引けば、行かないでと追い掛けるように彼女の歌が響く。声が届き甘えようと帰る波から、今度は逃れるようにと旋律は遊ぶ。まるで悪女だとユキヲは思い、彼女らしいと付け足した。幾度かの遣り取りの後、一方的に彼女が歌うのを止めると、名残惜しむようにひとつ大きな波が立った。ユキヲは圧倒されながらも拍手を贈る。
「その歌声はきっと何物にも代え難いのだろうね」
 ふふと微笑み、けれど瞳を伏せながら彼女は歌った。
「それでもわたしは二本の脚の為なら声を捨てても構わないのよ」
 抱かれるように彼女は飛沫を上げて飛び込み、歌声と共に海の中へと深く深く。そして波は嬉しそうに引いていくのだった。


posted by sakana at 12:48| Comment(0) | ミルク特別篇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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