2008年12月20日

悲しみの果て

「『悲しみの果て』が見てみたいの」
 その少女の言葉に男は少しだけ興味を持った。
「何で悲しみの果てが見てみたいの?」
「もうこれ以上悲しみたくは無いの」
「そんなに悲しい事が起こったの?」
「人によっては些細かもしれないわ。でもあたしにはとても悲しいことが起こったの」
「へぇ……どんなこと?」
「きっと笑うわ」
「笑わないから言ってごらん」
「ハムスターが死んだの」
 ――そんなことで?
 そんなことでこれ以上悲しみたくないのなら生きていては無理だろう。
「本当に悲しみたくないの? それなら良い方法があるよ」
 少女は目を輝かせた。その顔を見て、男は僅かに罪悪感を感じたが、ポケットからナイフを出して、少女に渡す。
「これを手首か、首筋に当てて一気に引くんだ」
 男は人差し指を立てて、まるでその指がナイフであるかのごとく振舞った。
「痛いのは悲しいわ」
「それじゃ、これかな」
 そう言って、男は小さな箱を取り出す。その中には透き通った緑色をしたカプセルの錠剤が入っていた。少女はナイフを置いてカプセルを持つ。
「そいつを飲めば、段々と意識が遠のいて、眠ったまま帰って来られなくなる」
「今すぐ悲しみから遠ざかりたいの」
「そうか、一瞬か……それならこいつかな?」
 今度は黒光りする拳銃を取り出した。ごつごつとしたそれのグリップを、少女は重そうに握る。
「そいつでここや、ここを打ちぬけば良い」
 言いながら、男は自分の眉間やこめかみを指差した。少女はゆっくりとした動作で、銃口を男のこめかみに当てる。
「そこね」
「ちょっと……何処を狙ってるの?」
「『そこ』を打ち抜くんでしょう? 動かないで。もう腕が疲れたわ」
「そういう意味じゃない! それは自分の……」
 言い終える前に銃声が響いた。
 少女は出来たばかりの池の上で、しばらく立ち尽くしていたが、男が死んだことを理解すると、小さな声で呟いた。
「嘘吐き……あなたが死んで、あたしは悲しいわ」


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2008年12月24日

本当の理由

 巡察機<サーケイジュ>がそれを発見したのは偶然だった。
「艦長。惑星361周辺に小型生物反応あり。映像送ります」
「これは……人?」
「……そのようですね」
「圧加服もなしで開放宇宙を? 空気泡もないわよ?」
 艦長ミレイユは邪魔臭そうに麗しい長い髪を掻き揚げて視界を広げ、目を細めて再び視野を狭めた。モニタに映る青い惑星。空気の編成が違い過ぎるのと重力が強過ぎるという理由から降り立つことは不可能な、遠くから眺めることしかできない鑑賞用の大地。星は少し遠くから見た方が美しいというのは常識であるから、降りることができないのなら肉眼で見るほど近づく意味がない。モニタ越しで見るのなら何処で見たって一緒だからだ。わざわざ艦外に出て眺める物好きなどは居やしない。そうであるからこんな辺境を巡察する理由などミレイユには見当たりはしなかった。無人巡察艇の一機で充分。とはいうものの戦闘もなく兵役を終了させることができるのだから良いかともちらりと考える。
「艦長?」
「……ああ。停止信号を送って。停止の意思を確認できたら一般二十六言語で順番に話し掛けてみるように」
「そういえば去年もこんなことがありましたね」
 キィボードを叩きながら通信士が思い出したように放った言葉は引き金となり、奥の方で眠っていたミレイユの記憶を引き出した。
「……毎年よ。そういえばそんな時期か」
「返答がありません。如何致しましょうか?」
「決まっているでしょう? 宇宙は私達のものなのよ。撃ち墜しなさい」
 ミレイユの艦が巡察機でなければ捕獲という選択肢もあるのだが、巡察機には要員も少なく空きスペースも保存環境もないのが通常である。そしてミレイユ艦も例外ではない。だから巡察機が敵と見なした場合は映像を残した後、撃墜か撤退が採られるべき選択肢なのである。
「機雷放出用意。位置1−5−10−2−6−1。準備完了出来次第、放て」
 ……サンタが減った本当の理由を地球人は誰も知らない。
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2009年02月06日

ランランラン

 ぱしゃりぱしゃんと水溜まりを駆け抜け、ぐにゃりぐにゃんと柔らかい地面を走り進む。
 粘性の高い卑らしい雨が身体に絡み付く、視界を塞ぐ。柔らかい地面が足を飲み込む、膂力を奪う。けれど僕は止まらない。止まれない。
 雨粒が僕を削って行く。文字通りそのままの意味で削って行く。雨が当たれば当たったところから、僕の肢体はゆっくりと確実に溶け出してしまう。少しずつ正確に崩れ去ってしまう。どんなに祈っても雨は容赦無く僕を襲い内面へと侵食するから、止まっていたらいずれ死ぬ。かといって動いてもすぐに死ぬ。けれど動くのならば雨が終わるところまで辿り着けるかもしれない。雨粒の呪縛の果てまで、身体が、意識が、心が、もしも残っているのならば。
 さらに速度を上げ強く雨を抱く。比例して僕の劣化が勢いを増す。
 抜け落ちていく毛髪。
 焼け落ちていく皮膚。
 剥げ落ちていく肉片。
 ぽろぽろと臓器が零れていき、
 軽い、と感じる。
 丸見えの肋骨から直接空気が入りこんで苦しくない。そもそももう酸素なんて必要ない。
 前しか、見えない。
 眼球は当の昔に内側から落ちていったが、僕には見える。赤く爛れたこの世界を、僕はどこまでも見渡せる。終わりの無い絶望が。終わりが無いことへの絶望を。

 カラリ、コキャ、コロリ、カキャ、

 僕が完全に白骨化して音が変わった。赤の中で白が鳴る。骨になってもなお僕は走った。けれどもう骨さえも細くなってしまう。だんだんと髄液までも流れ出してしまう。意識だけが前を向く、上を向く。
 僕は骨を捨てた。
 骨を抜け出した僕が、何も持たない僕が、やっと雨の結界から解放された。
 刹那。
 現れる階段。
 独りの人物が降りて来て、
 こちらにおいでと手を差し伸べる。
 崇高なる慈愛の微笑。
 僕は少しだけ迷って結局手を取った。
 そして気付く。
 これは死で。
 これもゴールで。
 解き放たれた僕は昇華されたんだってことを。
 君の中で僕は消化されたんだってことを。
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2009年02月09日

人形姫

「人形には命が宿るのよ」
 腰まで届く絹にも似た黒髪をしゃらんと鳴らし、彼女はこちらを見た。纏っている白い服よりも彼女の肌は透き通っている。この部屋にはドアと窓のある側面以外は棚があり、所狭しに人形が飾ってある。驚くべきことにそれらは全て彼女の創作である。
「それは新作?」
 彼女の手元にある人形を指差し、僕は言う。それはとてもシンプルなデザインで、人間を摸倣したとしか解らない。目、口、鼻、指も無い。
「そうよ」
「モデルは僕じゃないよね」
 恐る恐る僕は聞く。人形を抱いた彼女にはそういった雰囲気が漂う。
「モデルになりたい?」
「いや、今回は遠慮しておくよ」
「モデルは学校の人。隣に座っているの」
 いとおしげに人形を撫でる。その姿は幻惑的で美しい。彼女が創る人形には本当に魂が宿るのかもしれないと思わせるには十分な光景。
「その人形はどこに飾るの?」
「残念だけど家の中には飾れないわ。裏の神社に大きな杉の木があるでしょう? そこに飾るつもり」
「へぇ」
 そういうものかもしれない。彼女を不安に思わせた罰。それは仕方の無いことだ。彼女にはその権利があると思う。
 その後、瑣末な会話を交わし、僕は部屋を出た。
 家に戻り、耳を澄ませば、草木も眠る午前二時。遠くで五寸釘を叩く音を聴いた気がした。
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2009年04月03日

あひる

 人の死に立ち会う時、わたしはその場で泣けるだろうか。わたしは泣けないかもしれない。それが親しい友人だったらどうだろう? それでもわたしは泣けないかもしれない。きっとその後の現実に思考を走らせることだろう。ふとした時に振り返り涙を零すことは有っても、ダイレクトに感情が弾けることは無いと思う。淡々としている姿が我ながら容易に浮かぶ。
 わたしはそんなことを考えていた。普段あひるなんていう渾名で呼ばれるわたしには似合わないベクトルの思考かもしれない。静粛な通夜の持つ雰囲気が、そんな少しセンチメンタルな考えをさせたのだろうか。
 こんなにも豊かな色彩に溢れた世界に囲まれていながら、白と黒とのモノクロームの中で、死人は送られて行く。暖色系の色合いが不謹慎だなんて思想は時代遅れでしかない、とは思うものの目立つ訳にもいかない。わたしは普段はあまり好きではない黒の装いに身を包み、静々と参列者の端に加わることにしていた。
「……あひるさん」
 後ろからの声に首だけ捻って姿を確認する。「あ。広海」
「お久し振りです」
「最近顔出さないからね」
「あひるさんが?」
「あなたが」
 わたしはここでわざとらしく溜息を吐いて、首を大袈裟に振りながら続ける。「まったくこの調子じゃあ、次に逢うのも誰かの葬式かもしれないわね」
「ちょっと不謹慎ですよ」
 広海が苦笑しながら嗜めるけれど、そんなことを気にするわたしではない。そしてそれは広海も知っている。だからわたしは少しだけ微笑んで言う。
「何を今更。もともと不謹慎な顔しているんだから良いのよ」
 そう。わたしはこういった硬い席ではいつも不謹慎だと言われる。
 全ては渾名の由来に有る……あひる口は残念なことに葬式には不似合いらしい。
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2009年04月06日

花火

 祭囃子が聴こえる。夕刻に少しばかり抑えられた蝉時雨を潜り抜けて、薄く届いた音は、近くの神社で行われている夏祭。提灯に照らされた石段をひとつひとつ上がって、赤い鳥居を潜れば、そこに……
 目を覚ますように、わたしはそこで想像を止まらせようとした。車椅子が必要な自分には考えるだけで、あまりに寂しいお話だったから。
 それでも、足が動いた頃に一度だけ行ったことがある夏祭のことを、わたしは未だに忘れることができない。朝顔の浴衣を澄まして着た、赤い金魚を二匹掬った、ふわりふわりの綿飴をねだった、遠い遠い夏。お面越しに観た夜空に咲く花火が、向日葵のように大きく夏を主張した。
「……な……奈々ってば」
 庭の方から達矢の呼ぶ声がして、やっと物思いから帰る。顔だけで振り返ると網戸の向こう側で、手に提げたビニール袋を指差す声の主が笑っていた。
「花火、貰ってきたんだ」
 言いながら靴を脱いで庭から上がってくると、椅子に座っているわたしの背中と膝の裏に、上手に両腕を差し込んで、軽々と持ち上げた。そのまま縁側に腰を掛けさせてもらう。外はいつのまにか暗く、百日紅の花が夜を吸いこんで、淡い赤を紫にしていた。
「線香花火?」
「鼠花火じゃ奈々は避けられないだろ?」
「そうねえ」
 ちろりちろりと達矢のライタの炎が揺れる。わたしは猫のように丸く腰を曲げてその火を借りた。熱が静かに伝わって、次々と飛び出してくる細い光の線。ぱちぱちぱちぱちと小人たちが拍手するような音。薄く漂う煙。火薬の匂い。滲む明かり。
「綺麗ね」
「ああ」
「そこは「奈々の方がもっと綺麗だよ」って言わないと」
「馬ぁー鹿っ」
 わたしは思い出す。あの七月の終わりに夜空を彩った花火を観たときに、隣にいた少年のことを。まだ同じくらいの身長で、からんころんの下駄を履いたわたしを、ずるいと言った少年。射的の景品に巧く弾が当たらなくて、涙ぐんだ負けず嫌いな少年。いつわたしを追い越していったのか。いつかわたしを置いていく、そんな日が来るのだろうか。
 しゅん、と小さな音を立てて落ちた火種。一緒に、わたしは言葉をひとつ零した。「……きよ」
「え?」
 聞き取れないように言ったのよ。新しい花火に火を付けて、わたしは夏をそっと咲かせた。
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2009年04月10日

AC

 コンクリートの打ちっぱなしで設計されたカフェが、森林公園を抜けた先にある。駐車場や駅とは逆の方角で道は細い上にでこぼこしているから、歩いてしかいけないけれど、森が切れたら左手にそれはある。
 ただでさえ小さな建物の小さな入り口は常に閉じているので、営業中かどうかは外から眺めただけでは解らない。それに看板がないから、ここがカフェであることを知っている人自体がとても少ない。入口の隣にポストがあって、そこに【アリスカフェ】とささやかに書かれていることに気付くか、それ以上にささやかに漂う珈琲の香りを感じ取ることができなければこのカフェは見付からない。
 青年はドアノブを捻る。キッと短く金属音を一度だけ立てて……回った。どうやら今日は開店中らしい。猫背になるだけでは足りず、さらに膝を折って赤い扉を潜り抜けると、珈琲メイカを乗せたテーブルが置かれたスペースに出る。椅子は二脚。六帖ほどしかない狭い店内には、それだけしかない。そして二脚のうち片方には一人の少女が座っているのだ。青年は少女に向かい合うように椅子に座る。これでアリスカフェは満席になってしまう。青年が席に着くと少女はゆっくり立ち上がって、ドアに鍵を掛ける。何処か機械的で人形的な動きだ。フリルが多目の黒いワンピースに、染みひとつない白い前掛け、長い艶やかな黒髪を飾る白いカチューシャ。歩いた分だけふわりと震えるそれらは中身より生きている感じがするから不思議だ。
 少女が再び青年の前に座ると珈琲メイカのスイッチを入れる。こぽこぽこぽ。珈琲が出来上がるまで、物言わず少女は青年の瞳を覗き見る。少女の瞳の中で息が続かずに溺れるまでの五分間。やがて一杯分の珈琲がカップに落ちる。
 青年がソーサごと左手で持つと、立ち昇る湯気が一本の糸になって、少女を捕まえる。抵抗しないことを良いことに糸は重なり合って、少女を離さない。そうして青年は少女ごと珈琲を楽しむのだ。
posted by sakana at 12:48| Comment(0) | その他千文字 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月22日

夢で逢えたら

「今夜は<夢>で逢いましょう」
 受話器の向こうで唐突に彼女が言ったけれど、僕は戸惑ったりはしなかった。すぐに昨晩のテレヴィで<夢>の特集が組まれていたことに思い至ったからだ。きっと彼女も同じチャンネルを観ていたのだろう。見たもの聞いたもの触れたもの、何でもすぐに影響を受けてしまう少々性質の悪い女性、それが彼女だった。
 雑誌で「今年は絶対ブルー」なんて謳われれば彼女は青いアイテムを身に付けるし、ラジオでDJがチャートをカウントダウンして行けば十七位までの曲を聴く。それでも執着がまるでないのが彼女の特徴で、部屋の隅では一時期流行った腹筋マシンが哀れに埃を被っていたりする。ある角度から見たらバランスが良いといえるかもしれない。
「どうして<夢>で逢おうなんて言うのさ。無理に決まっているじゃないか」
 いつも通りの遣り取りに半ば無意識で諭してはみたものの、昨日の液晶画面に映ったカップルのことを羨ましく思ったのは僕も同じだった。満面の笑みを浮かべながらテーブルを挟んで食事をしているだけの他愛もないものだったが、次々現れる皿はすべて現実離れした鮮やかな色使いでとても斬新な造形を見せ付けていた。さすがに味や香りまでは解らなかったけれど、それらだってきっと素晴らしいに違いない。まさに<夢>ならではという光景だった。
「何故そう簡単に無理だと言うの?」
「逆に何故そう気軽に言えるのかが知りたいよ。喫茶店にケーキを食べに行くのとは違うんだよ?」
 敏感なロマンティックアンテナを所有する彼女だけにそういった映像に憧れる気持ちはよく解る。僕だってできることなら受け入れてあげたい。けれどどう考えたって現実的ではないと、理性が訴えかけるのだ。僕は困ったことに純正リアリストだった。だから彼女の夢物語を夢物語で終わらせるのが僕の役柄。彼女もそれが解っているのだけれど、口に出すだけでも多少の満足が得られるらしくて、駄目だと言われるために僕に話す。
「愛し合う恋人同士が<夢>で逢うなんて素敵じゃないかしら?」
「そりゃあ素敵さ」
「でしょう?」
「でもそういうことはできないから素敵なんだよ。簡単に叶ってしまえばそんなの素敵でもなんでもない」
「まったく本当に夢がないわね」
「気の利いたジョークをどうもありがとう」
「馬鹿ね、皮肉よ」
「知ってるさ」
 派手に切れた電話の後、また他の何かに誘惑されている彼女の姿を想像して、僕は溜息をひとつ零す。
 それにしてもやはり一度は行ってみたいと思ってしまう。その名の通り夢のような料理が並ぶという、超高級レストラン<夢>。一夜の夢を観る料金のことは、できれば想像したくないのだけれど。
posted by sakana at 12:59| Comment(0) | その他千文字 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月05日

こころころりん。

 入道雲に見惚れていたら、心がぼくから飛び出した。透き通った淡いピンク色でハート型したその心は、坂道をころころと跳ねながら転がっていく。ぼくは慌てて追わなくちゃと思ったけれど、それはほんの一瞬だけで、ばいばいと代わりに手を振った。捕まえるにはちょっと気が乗らなかったので。もしかしたら背中の方でも、やる気の心が逃げ出したのかもしれない。
 心はどんどん加速していった。流れ星のように尾を引いて、自分の心とは思えないほど美しかった。僕の中のどんな心があんな色や形をしていたのだろう。見えなくなるまでぼく僕は手を振っていた。
 胸に穴が空いたことは、その後のぼくの生活にはまったく影響がなかった。というよりもすっきりとしていて、むしろ清々しかった。そうなると逆に気になってしまうのが人情で、ぼくは無くした心のことをよく考えるようになった。すると心の隙間は段々と大きくなって、ぴゅうと風が吹き込むだけで、ふるふると他の心が震えて安定しなくなってしまう。そろそろここに新しい心を埋めなければいけないと、時期を知らせているようだった。
 一体どんな心が、ぼくの隙間に合うだろう。
 ぼくは出掛けることにした。家の中じゃあ見付からないと思ったから。
 ゆらゆらと歩く。すらすらと進む。ふらふらと迷う。くらくらと困る。さらさらと流れる。ひらひらと踊る。はらはらと散る。めらめらと燃える。るらるらと歌う。きらきらと光る、君。
「久し振り」
 そう言った君の手には、ぼくの落とした桃色の心があった。
「これ、あなたのでしょう?」
「どうしてぼくのだって解るのさ」
「見て」
 そこにはまだ幼い彼女が映っていた。彼女しか映っていなかった。
「……君のじゃないの?」
「わたしのじゃないわよ。落とした覚えが無いもの」
「ますます解らないよ。何でこれがぼくの心なのさ」
 彼女は仕方が無いわねという顔をして、水平になるような角度からぼくの心を指差した。顔を寄せてぼくも覗き込む。
「ここ。ほら右手しか映ってないけれど、わたしが誰かと手を繋いでるでしょう? この頃、手を繋いだ人ってあなたしかいないもの」
 その言葉でぼくは思い出した。彼女はぼくが最初に好きになった娘だった……そこで突然、心がぱぁんと風船のように破裂して、窮屈そうにぼくの隙間に入り込んできた。心は元の場所に収まろうとしたけれど、旅立つ前より大きくなったように感じる。胸がいっぱいで、張り裂けそうで、どきどきした。
 だから「またね」と去ろうとした君をぼくは呼び止めた。
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2010年09月09日

執行猶予-stopped-

 僕は慌てて時間を止めた。

 物心ついたときにはもう時間を止める能力が目覚めていた。
 「時間が止まれば良い」なんてみんな言うけれど、僕にはそんなに魅力があるようなものには思えない。別に僕は自分の能力を出し惜しみしているわけではないし、有効に使えるものなら使いたい。
 でも、みんなは大事なことを解っていない。時間が止まるっていうことは、空気だって止まるのだ。当たり前といえば、当たり前。僕の周りにある空気は僕をしっかりと固定する。意識だけが自由。ゆっくりと物事を考えるには適しているけれど、ただそれだけの価値しかない。
 最初にこの能力に気付いたときは、金縛りに遇ったのかと思った。動けないし、息もできない。けれど不思議と苦しくなかった。落ちついて視線の先にある柱時計を見ると、秒針も動いていない。驚いて針が動くことをイメージしたら、思い出したように時計は廻り始め、試しに「止まれ」と念じたら、再び僕は動けなくなった。初めのうちは、面白半分に空中で止まったりして遊んでいたけれど、続けて使ったり無茶をすると非道く疲れてしまうという欠点がやっぱりあった。今のところは疲労以外の副作用は無いけれど、今後も無いかといえば、それは解らない。だからといってこの能力を誰かに調べてもらうわけにもいかないし、仮に診せたって、時間を止めた間に何も動かないのだから確かめようが無い。それでは良くて虚言癖があると診断されるか、悪くて違った趣旨の病院に連れていかれるだけだろう。
 だから僕は滅多なことがなければ時間を止めようとは思わない。第一、時間を止めたところで、すぐそこまで変えようの無い未来が待っているのだから。

 ……と、そんなどうでも良いことを、触れそうなほど近づいた真っ赤な車の隣りで僕は考えていた。
posted by sakana at 23:12| Comment(0) | その他千文字 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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