2008年12月22日

加奈式世界


プロローグ

 目覚し時計がけたたましい電子音を響かせようとする一分前、宮本隆行は布団から右腕だけ出してスイッチを切った。それは彼の所有物となってまだ一度も仕事をさせてもらっていない。隆行自身、どんな音かすっかり忘れてしまっていた。
 隆行は布団から出ると珈琲メーカをセットする。それから布団をたたみ、顔を洗って、トースタにパンを放り込む。それでゆっくりと意識は覚醒して行く。お決まりのルーチンワーク。
 ようやく脳が目を覚ますと細胞のひとつが昨日の記憶を身体に連絡する。
「……会社は昨日で辞めたんだった」
 朝は強いほうではないが、一度覚めるともう寝直すことはできない。仕方なく隆行は買っておいた求人誌に目を通す。しかし目は文字を追ってはくれない。思考が定まらないからだ。原因は会社を辞めた理由である。
 隆行は情報誌を読むことを諦め、珈琲を啜って一人ごちた。
「謝りたいなあ」



 時は遡る。
 4月。宮本隆行は今日が入社第1日目だった。大学在学中にも初任研修やセミナなどがあったため厳密には初めてではないが、気持ちの問題である。
 青空株式会社。それが彼の勤める会社の名前だった。名前からではなかなかに想像し難いが、簡単にいうとコンピュータ関係の仕事で職種はSE(システムエンジニア)である。隆行の配属された仕事場は自分を除いて6人程度とあまり広くはなかったが、最初はこんなものだと納得していた。
「開発三課に2人、新人が入ることになった。彼が……」
 まだ30代半ばといった課長に促され隆行は軽く頭を下げて挨拶した。
「宮本隆行です。よろしくお願いします」
 まばらな拍手。課長はにこにこと手をたたき、今度は反対側を見る。
「佐々木加奈です。一生懸命がんばります。よろしくお願いします」
 また、まばらな拍手。隆行には佐々木加奈と自己紹介した女性はまだ高校を出たばかりといったところにしか見えなかった。彼はもう少し観察しようかと思ったが、課長に席を案内されたので目線を戻した。
 隆行は最新型のパソコンのある机に、彼女は旧式の机に移動した。



 佐々木加奈は給湯室で小首を傾げていた。
「SEっていうのはお茶汲みも仕事なのかな?」
 確かに加奈はSEと聞いて入社した。しかしSEがいったいどんな職種なのかは漠然としか解っていなかった。第一加奈は生まれてから一度たりともパソコンを扱ったことがない。高校を卒業して仕事に就きたいと考えていたが職種に特別なこだわりはなかった。条件も良いし、聞いたことのある会社だから受けてみようと思ったら、本当に受かってしまっただけのことである。
 湯のみを並べて、目の前に張ってある表を見る。
「課長は珈琲、ブラック。で、こっちは紅茶、砂糖はなしでミルクを一杯……」
 面倒臭い。もっとクリエイティヴな仕事がしたいと加奈は思ったが、パソコンを使えと言われても何もできない。仕方ないので、もう少し馬鹿な振りをしていようと決めた。
 その他、雑用をこなすとお昼になった。皆、ぞろぞろと食事に出かける。その中で、一人だけパソコンに顔を近づけている人が居た。加奈は記憶の糸を必死に手繰り寄せる。確か、あれは……新入社員の宮本さん。彼はまだ仕事を辞める気配はない。加奈は給湯室に行き、珈琲という名の口実を入れて、近づいた。
「熱心ですね。宮本さん」



 パソコンの画面は隆行の思考を忠実にトレースしていた。隆行は機械が好きだった。ただただ素直に従順にしてくれるところが良い。自分で考えて主人の機嫌を損なうことがない。対人はそうもいかない。色々なしがらみや思考の食い違いが生じる。その点、機械の持つ完璧な上下関係は最高だった。
 そんな思考を弾ませ、与えられた仕事を淡々とこなしていると、いつのまにか隆行の隣に一人の女性が立っていた。
「熱心ですね。宮本さん」
 彼女はそう話し掛け、珈琲をデスクに置いた。
「もう、お昼ですよ」
 彼女は周りを見渡して言葉を続ける。「皆さん食事に行きました」
「有り難う。ええと……」
「佐々木加奈です。凄いですね。もう仕事を任されてるんですか?」
「ああ、これ? 簡単なプログラミングだから」
「これが? 簡単?」
「雑用みたいなものだよ」
 隆行は珈琲を口に運んだ。「誰もやりたがらない」
「それでも凄いですよ。あたしなんかパソコンなんて触ったこともないですから」
「え? 本当に?」
 返事をする代わりにこっくりと頷く彼女を見て隆行は驚いた。この会社はパソコンが使えなくては話にならないのだ。就職面接でもしっかり聞かれた。どうして彼女が受かったのか不思議だった。それに「だって、初任研修のときにやったでしょう?」
「そのときは隣の子とお話していて聞いてませんでした」
 にっこりと笑って彼女は言う。「もし、よろしかったら教えてくれませんか?」
 隆行は思う。やっぱり、現実世界はしがらみが多すぎる……




 加奈はそれから毎日、仕事を終えると隆行を捕まえ、熱心に勉強した。彼はとても良い師匠になった。勉強会が終わると、喫茶店で珈琲を一杯奢る。それが授業料。それにしても今まで勉強が面白いと思ったことは無いのに、もう二ヶ月も続いている。それは加奈にとっては奇跡に近いことだった。最初はOLになったらアフタ5は仕事をせず、すぐに遊びに出掛けるつもりだった。高校時代は何もできないで通してきた。いざとなれば他人がいつも助けてくれた。それは加奈の顔の造形が他人より整っていたことも助けていたが、それよりも「助けてあげなくては」という気持ちにさせるのが上手かった。それは加奈の履歴書には書けない特技である。
 隆行のおかげで、ある程度はプログラマとしての技術が育ったと加奈は思う。けれど与えられた仕事は変わらなかった。経験が欲しい。加奈がそんなことを相談できるのはこの会社では一人しか居ない。授業の後、いつもの喫茶店へは行かずに加奈はホテルの地下にあるバーに隆行を誘った。
 彼はこういう場所に慣れていないようだった。目線が定まらない隆行を見て、加奈は少しだけ優越感に浸る。
「静かなところでしょう?」
「静かなのは嫌いじゃないけど、返って落ち着かないな」
「そうですか?」
 加奈には彼が落ち着かない理由が解ってはいたが気付かない振りをして微笑んだ。椅子に座り注文する。「わたしは甘くないものを」
 仕事場とのギャップに少し驚いた様子を見せて隆行は言った。
「……僕はアルコールが少ないものを」




 ――なんというか、驚いたな。
 隆行は素直にそう思った。彼女には会社ではあまり見られない余裕があった。どちらが本当の彼女の顔なのだろうか。まあ、どちらでも良い。隆行は思考を振り払うようにグラスに口をつけた。
「……それで? 何か理由があるんじゃないの?」
「何のです? 理由が欲しいのは宮本さんの方じゃないんですか?」
 彼女はゆっくりとグラスを回すと、隆行の方を見て微笑む。
「驚いた。会社に居るより回転が速い」
「それは会社のあたしがOFFモードなんですよ」
 そう言って、彼女は人差し指を頭に当てた。「今はON」
「そうだろうね。なんで馬鹿の振りをするの」
「それは決まっています。その方が楽だからですよ」
「楽? それは楽しい?」
「飛ばしますね。まぁ、振ったのはあたしの方ですけど。相手があたしのことを馬鹿だと認識していてくれれば、そのときは楽ですよ。責任が無いんですから。楽しくはありませんけれど。宮本さん、我が社の社是って知ってます?」
 隆行は急に話を振られて対応しきれずにいた。正確には記憶を辿って、覚えていないということを思い出していた。知らない事は答え様が無い。
「『青空のように無限の可能性を開拓する』ですよ。あたしは覚えています」
「そうだったっけ?」
「ええ。けれど今あたしのしている仕事は可能性が無い」
「楽しくなりたいんだね? 楽じゃなくても良いの?」
「楽はもう良いんです」
「良い傾向だと思う。けれど仕事は本来面白いものではないよ。」
「そうかもしれませんけど……何もしないよりは良いと思うんです。それを言っておこうと思って」
 隆行は小さく頷いて、グラスを掲げた。彼女はそれに自分のグラスを合わせる。微かな音がひとつ響く。それで加奈の思考は再びOFFに切り替わった。




 次の日。加奈は課長の前に立っていた。
「あたしにも仕事を貰えませんか?」
 加奈は、隆行に認められたのが嬉しかった。きっと彼に会わなければ加奈は今も馬鹿の振りを続けていただろう。それも良く解っていた。
「お茶汲みも立派な仕事だと思うけれど?」
「お茶汲みだけが仕事というのもどうかと思うのですけれど」
「……良いだろう。じゃあこれを……明日までにやってもらえるかな」
「はい」
 紙の束を受けとって、加奈は隆行だけに見えるようにウィンクをひとつした。
 その紙に書かれている内容は、少し前なら何処から手を付けて良いのかも解らなかった。けれど今なら解る。「仕事は本来、面白くないものだ」と隆行は言ったが、仕事は面白い。仕事ができるということが面白い。始めての仕事に加奈は没頭した。
「手伝おうか?」
 何時間後かの、その言葉で加奈の脳は目を覚まし、外界を受け入れる。声の主は宮本だった。彼はもう一度繰り返して言った。「手伝おうか?」
「いえ、これはあたしの仕事ですから」
「ちょっと見せて貰える?」
 隆行は紙束にさっと目を通す。
「うん、そうだね。頑張って」
 これならできると認めてくれたのだろう。きっと彼よりは時間が掛かるのだろうけれど、それは仕方ない。だから加奈は声を張って言う。
「はい」




 やはり気掛かりだったのか、次の日少し早く会社に着いた隆行は驚くことになった。
 加奈が寝ているのだ。
 点けっ放しのディスプレィ。隆行はスクリーンセーバをマウスで払って確認する。
 ……ほとんど進んでいない。
 愕然とした。
 そこで普段は遅い出社の課長が最悪のタイミングで登場する。
「宮本君か、早いな」
「おはようございます。課長こそお早いですね」
「ああ、少し仕事が残っていてね」
 加奈をちらりと見て、課長は溜息を洩らした。
「……こんなことになるんじゃないかと思ったよ」
「済みません」
「君が謝ることではないよ。悪いんだが、この仕事引き継いでくれるかな」
「解りました」
「その前に珈琲でも淹れようか」
 そういって課長は加奈を起こそうとしたが、隆行が止めた。
「僕が淹れますよ」
 隆行は給湯室に入り、インスタント珈琲を出そうとしたが、もう入っていなかった。ごみ箱に捨てようとすると一杯だった。何をやっても駄目なときがある。まさに今がそう。苛つく自分を押さえながら、ごみ箱に空の珈琲壜を押し込む。幾つかごみが溢れたが気にしていられなかった。新しい壜を開け、隆行は珈琲を3つ淹れた。




 加奈は肩を揺すられ目を覚ました。
 その手の主は隆行ではない。
 ――寝ていた? 時間は?
 加奈は慌てて時計を見る。
「8時だよ」
 課長だった。
 昨日の夜に淹れた珈琲の隣りに、新たに淹れられた珈琲があった。
「し、仕事は?」
「できているはずがないだろう? 宮本君に引き継いでもらったよ」
 隆行の机に首を振る。彼は黙々とキィボード叩いている。
「君のお陰で彼の仕事がまた一つ増えたね。どうするつもりなの?」
「済みません」
「済みません? これは遊びではないのは知っているね? これは仕事だ。このプログラムでお金を貰い、君の給料も出ている訳だ」
「はい……」
 その後、こってりと絞られた。自業自得だと自己嫌悪に陥る。あれだけ去勢を張った挙句にこの低落では仕方無い……仕方無いのは解っているが、問題は別に在る。その所為で課長の叱咤も加奈の耳に入っていなかった。
 その日の業務時間を終えると、加奈は仕事以上に気になっていた問題を片付ける為に、隆行の側に寄る。
「折角教えていただいたのに、済みません」
 こんな言葉では何の解決にもなりはしない。けれど加奈にはそう言うことしか出来なかった。
 隆行は何も語りかけてくれなかった。




 加奈が退職して幾月後、隆行は一人残業していた。
 珈琲を飲もうと給湯室に行くと隅の方に、銀色の光りが見えた。
「?」
 何の気無しに手に取ってみる。埃を払うと錠剤の空き袋のようだった。裏を返して見ると、そこには睡眠薬と書いてある。
「これは?」
 隆行は考える。
 会社に睡眠薬。意外な組み合わせだ。接点がまるで無い。会社で起き続ける必要は有っても、眠らなければいけないような状況は皆無だ。
 ――彼女が眠った理由はこれの所為ではないのか?
 確かあの時……空の珈琲壜を捨てようとして、ごみ箱が一杯で幾つかごみが溢れた。この睡眠薬の空き袋はその中のひとつだろうか? 数ヶ月前のごみが残っているなんてことが有るのか。何故あの日に限って課長は早く出社してきたのだろうか? これは考え過ぎだろうか。
 しかし、最後の疑問が全てを肯定した。
 加奈は眠ってしまうような人間だったのか?
 もしかしたらこれすら課長の思惑かもしれない。けれど隆行が取った行動はひとつ。会社に対する未練は無かった。


エピローグ

「謝りたいなあ」
 トースタからパンを取り出し、隆行は再び呟いた。
 狐色のパンにバターを塗り、求人情報誌に目を通す。
 いくら不況とはいっても、こんなにも仕事はある。不思議に思う。何故多くの人はひとつの会社に縛られた生き方を選択するのだろうか。居心地が悪かったら辞めてしまえば良い。辞めるという選択肢や、次の仕事を探すという選択肢。そう選択肢は多い程自由なのだ。
 そんな自分を慰めるような思考を進めたが、反対に出るのは溜息だった。隆行はプラス思考の似合わない男なのである。
 けれど、不思議に気分は悪くなかった。

 数ヶ月後、隆行は新しく勤める会社で偶然にも加奈に出逢うことになるのだが、それはまた別の話である。


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2008年12月25日

サンタの友達

 僕に与えられた任務は「少年にサンタクロースを信じさせること」。本来なら頼まれた友人の仕事だが、顔が割れているので仕方ない。それに成功すればいくらかの報酬が出るし、懐が寂しいのも事実だった。そして同時に失敗できない任務であることも事実である。報酬が期待できないからではない。少年を人間不信に陥らせる可能性があるからだ。
 大人は汚い。
 少年の心の底にあるのはきっとその少し歪んだ認識にあるのだと思う。それを取り除いてやれば任務は文句無しの成功といって良い。そんな重大な任務だからこそ……だからこそ、僕はサンタクロースという間抜けな格好を甘受して窓から侵入しようとしているのだ。
 少年を騙すことになる。それは解っている。成功したって、いつかは気付くに違いない。けれど大事なのは今。そう今なのだ。夢の無い少年時代を過ごしたのではあまりに可哀想過ぎる。
 母親に頼んでおいた通り、部屋の窓は開いていて、僕は無事に少年の部屋に辿りついた。顔を左にひねるとベッドがあり、そこには小さな少年が横になっている。ベッドにはやはりというか靴下は無い。部屋の印象はいたってシンプル。ポスター1枚さえも無いその潔さはとても小学生の部屋には見えない。かろうじて勉強机の椅子の高さが持ち主を子供だと示しているくらいだ。僕はこほんと小さく咳払いをして、心を落ちつかせた。
 一世一代、大芝居の幕開け。ここからが本当の始まりといって良いだろう。
「起きているかい? 新一君」

◆ ◆ ◆

「……しんいちくん」
 ぼくの名前だ。ぼくは呼ばれている。起きなくてはいけない。まだ少し、頭がぼんやりするけれど、それは仕方ない。起きてすぐはそういうものだから。目をこすって身体を起こす。
――!!
 ぼくの目の前には知らない男の人が立っていた。週3回家庭教師に来る先生と同じくらいの歳だろうか? 驚いたのはそれだけじゃない。着ている服だ。赤と白で作られたコートにズボン、おまけに帽子。部屋の中なのにもかかわらず、ご丁寧に靴まで履いている。これはそうサンタクロースの格好だ。
 大声を出そうとしたら、その人は「静かに」と言ってぼくの口に人差し指で栓をした。おまけにウインクまでするんだから馬鹿にしている。でもそんなことでぼくは取り乱したりなんかしない。
「あなたは誰ですか?」
 返ってくる答えは解っている。
「サンタクロースだよ」
 やっぱり。いやになるくらいワンパターン。時計を見たらまだ2時。そう思うと急に眠くなってきた。こんな子供騙しに構っていないで、もう1度寝てしまいたい。ぼくは頭の悪い子供は嫌いだけど、それ以上に頭の悪い大人が嫌いだった。
「帰ってください」
「おいおい、プレゼントは?」
 サンタクロース――の格好をした大人――は笑いながら言う。
「いらないです」
「無料なんだし、受け取るだけなら良いじゃない?」
「……受け取ったら帰ってくれますか?」
「ああ、すぐに帰るとも! 何が欲しい?」
「「何が?」ってぼくの言ったものをくれるんですか?」
「当たり前じゃないか。サンタに不可能は無いよ」
 ぼくは少しだけこのサンタクロースに興味が出てきた。今すぐ帰ってしまうのもつまらない。少しくらい困らせてみよう。その反応を見てからでも遅くない。
 ぼくの眠気は完全に去ったようだ。

◆ ◆ ◆

「当たり前じゃないか。サンタに不可能は無いよ」
 僕の言葉に聡い少年は悪戯っぽい笑みを浮かべて、こう言った。
「それなら……パソコンをください」
 まったく、この少年の賢さには舌を巻くばかりだ。笑いながら茶化してはいるが、それが精一杯の演技だった。それにしても、パソコンだって? そんな重いもの袋に入れて運べるわけが無いじゃないか。第一少年の母親からはジグソーパズルと聞いていたのだ。これは明らかに僕を試している。
「それは駄目だよ。サンタからの贈り物は形が残っちゃいけないんだ」
 必然的に作戦は変更になった。まあその方が良い。プレゼントを渡すだけなら僕ではなくともできるのだから。

◆ ◆ ◆

「それは駄目だよ。サンタからの贈り物は形が残っちゃいけないんだ」
 なんだって? サンタには不可能が無いと言いながら矛盾している。でも面白い答えだ。 ぼくはじっとサンタクロースを見る。焦っている様子は……ない。ぼくの答えを予想していたのだろうか? そんなわけはない。だったら最初から矛盾なんて起こさないだろうから。じゃあなんで焦らないのだろう? このサンタクロースは面白い。次はどんなことをしてくれるのだろうか。
「君の心の中にプレゼントをあげよう」
「心の中に?」
「そう。目を閉じて」
 ぼくはサンタクロースの行動が楽しみで言われた通り、目を閉じた。

◆ ◆ ◆

 少年は素直にぎゅっと目を閉じる。表向きは信じていなくても、心の底には幼さゆえの好奇心がある。ここからが僕の真骨頂。この子に魔法を掛けるのだ。
「深呼吸をして」
 そこで少年は急に目を開いた。
「もしかして催眠術を掛けようとしているんですか?」
「違うよ」
 僕は眉ひとつ動かさずにそう言ったが、実はその通りだった。それが僕の切り札。僕は現在、大学で心理学を専攻しているし、催眠術の作用が研究テーマである。絶対的なリアリストにほんの少しロマンティストのエッセンスを暗示によって振り掛けようとしたのだ。
 僕は少年を子供だという理由だけで見くびっていたのかもしれない。これでこの作戦も失敗に終わったのだ。
 さてどうしたものかと思案していると、少年は言った。
「形が残らないものをくれるのなら、雪を降らせてよ」

◆ ◆ ◆

「形が残らないものをくれるのなら、雪を降らせてよ」
 我ながら気の利いた科白だと思う。
「雪?」
「そう、雪。雪なら形に残らないでしょう?」
 もう1度「目を閉じて」と言われたら催眠術の可能性は捨てたけど、どうやら大当たりらしい。でも本当に催眠術なら、1度は掛かってみるのも面白かったかもしれない。
 まだ何かするかな? でも、さすがに雪の用意はしてないだろうし。それでも、ぼくはそっと窓を開けて、上を見た。もちろん雪の仕掛けをしているかどうかの確認のためだ。暗くてよく見えないけれど、そんな仕掛けは見当たらない。
 サンタクロースではなかったけれど――もともと信じてなかったにしても――この大人は良い大人だった。いつもの大人の理屈で頭ごなしに否定されることはなかったのだから。からかって悪いことをしたかもしれないな……と、ちょっとだけ後悔した。
「催眠術って1度掛かってみたかったんだ」と、困ったサンタクロースに話し掛けようとしたその時、窓の外で雪が一片、また一片と降り始めた。
――まさか!
 振り返るとサンタは微笑んで言った。
「ほら、雪だよ」

◆ ◆ ◆

 少年は窓の外を見ている。
 僕は参っていた。こうなっては白旗を揚げるしかない。十も違う少年の言葉に翻弄されている。僕は諦めの言葉を吐こうとした……その時、奇跡が起こった。このチャンスを利用しない手は無い。
 驚いた表情を張りつけて振り返った少年に僕は微笑みかけた。
「ほら、雪だよ」
 少年はあっけに取られている。僕だってそう思う。こんな偶然、クリスマスでなきゃ嘘だ。これではどちらがプレゼントを貰ったのか解ったものじゃない。
「……ほ、本当にサンタクロースだったんだ」
「だから言ったじゃないか」
「ごめんなさい」
 素直に謝る少年の頭を一撫でして、僕は言った。
「いいんだよ。良い子にしていたら来年も来るからね」
「絶対だよ! 約束だよ!」
 こうしてまた一人、サンタクロースの友達が生まれた。

◆ ◆ ◆

「絶対だよ! 約束だよ!」
 そこまで言って、ぼくは我に返った。
 ぼくが大声を出している? 騒ぐのが好きではなかったはずなのに? ……それに大人と約束するなんて?
 すべてが卒業したことだった。
 頭を撫でられるのがこんなにも心地良いことだったなんて忘れていた。
 ……それも良いか。
 だって今日はクリスマスなのだから。
 出て行くサンタクロースにぼくは手を振った。見えなくなるまでずっと手を振った。サンタクロースが時々こちらを見ては手を振り返すのが嬉しくて、ぼくは手を振り続けた。
 サンタクロースが消えたのを確かめてから、ぼくは小さな声で言った。
「メリィ・クリスマス」

◆ ◆ ◆

 僕は窓から飛び降り少年の家から遠ざかる。雪にも負けず、少年はずっと小さな手を振っていた。僕は手を振り返すと角を曲がって少年の視界から消えてしまう。
 ほんの少しの偶然が僕を救ったけれど、はたして少年は救われたのだろうか。結局サンタクロースを信じさせたとは言い難い。けれど少なくとも今日の素敵な不思議を信じることはできただろう。約束した少年の瞳にそれを確信した。
 それにしても、少年との会話を思いだしては顔が笑みで崩れてしまう。僕は恥ずかしくて下を見続け歩いていた。ふと初めに赤い靴が見えた。そして赤いズボンが見えた。そこで顔をあげると、そこには僕と同じ格好をした一年にたった一度しか逢えない友人が居た。僕と違うのはその服が着させられたものではないということと、これ以上ないってくらいに似合っているという点。
「やっぱり君のおかげか。タイミングが良過ぎると思ったよ」
 静かに降り続ける雪の中で友人は笑って言った。
「良い子にしていたからね」
posted by sakana at 12:59| Comment(1) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月10日

王様ゲーム(仮)

「麻雀はまるで人生のようだね」
 親の安里祐志が打牌とともに語りかけるのを無視して、月島一樹は牌を摘む。親指を滑らせ筒の数を数える……7。鉄砲だ。自らの手に組み込むことなく、そのまま河に捨てる。
「無視するなよう」
「……五月蝿い上家だ」
 目は西家の打牌を追いながら祐志の下家の一樹は言う。「何でも人生に喩えるのは幼すぎる」
「理由くらい聞いてあげればいいのに」
 北家の田村充が諭す。打牌はツモ切りで西。
「そうだよ。一樹には優しさが足りない。バファリンですら五十パーは優しさなのに。分けてもらえ」
 打二萬。チィと一樹の言葉が完成する前に「ポン」と西家の坂井武が牌を曝す。
「命の次に大切な金を賭けてるんだ。ギャンブルが人生とイコールじゃないわけがない」
 ……こいつ、俺のことを怒って無理にキィ牌を鳴きやがったな。
 一樹は浮いてしまった一萬の使い道を考えている。無理に鳴いたものだから浮き牌の整理が済んでないのだろう。武は左に二牌残して牌を曝したからだ。頭であれば良い。だがしかし二萬を鳴いて、対子の一萬を残すなんていうのは、役牌かトイトイが濃厚だ。どちらにせよ……この手は死んだか。
「解った解った。話に付き合うよ。何で人生なんだよ」
 ふぅと一息吐いて、一樹は牌の流れから意識を絶った。
「捨てられた河が過去。ツモる牌が現在。残された山が未来。自分の河を見て後悔し、他人の過去を羨ましがって、現在を簡単に捨て、未来はどんどん減ってゆく」
「安里くんは詩人だねえ」
 充は現在を手に入れた。「ぼくは今を簡単には捨てないぞっと」 右から四番目の八筒を河に捨てる。
「そして何より競争社会! 高順位なほど金が手に入る」
 混一一通は崩れていくが、一樹には萬子がさくさくと入る。
「九萬ポン!」
 食い散らかす武はテンパイが解りやすい。今回に限っては残り四枚だから、解りやすいもないけれども。
「食らえ! 最高の今を手に入れた俺様のリーチ!」
 祐志が大げさなアクションで牌を曲げる。
「お前は何でも人生に喩え過ぎ」
 放り投げた千点棒が卓に着くのとほぼ同時に、打四萬。
「この前はサッカーだったな」
 ツモ切りの七索。二種類の牌しか手にない上にドラを曝している以上、引くわけがない。
「ひとつの目的に向かってみんなで協力し合って……人は独りじゃ生きられないだっけ?」
 充は小考しつつ、現物の二萬。親のリーチにオリたようだ。
「うむ。それも人生」
「お前は何種類の人生送る気だよ」
 祐志と武の振り合いかと思われたが、小康状態のまま場は進んでいった。このままなら流局するかもしれないという雰囲気が漂う。
「ハイテイか……いてくれっ!」
 無情にも河に捨てられた、もはや過去の一萬を「ロン!」と武が救い上げる。「トイトイドラ3。ハイテイで跳ねたぜ」
 一樹も牌を倒す。
「メンホンチートイ。こっちもハイテイで跳ねたな」
「俺の周りの世間は世知辛いったらねぇ……」
 なあ祐志。人生は良くわからないが、麻雀は一位を取るゲームなんだぜ。トップを獲った一樹は祐志の墓標を刻むように点数を記載した。
posted by sakana at 11:37| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月14日

アイアイ

 母さん、僕を汚さないで。
 決して声にならない、喉の辺りで止まってしまう言葉がある。
 僕は裸のままでベッドの端に右手を繋がれていた。今日の母は僕の顔に赤い布を巻いただけで、それっきり何もしてこなかった。情けない僕の姿を肴に、酒を飲んでいるのだろう。アルコ―ルの香りが薄く漂っていた。
 目隠しをされても、この部屋がおかしな空気に濁っているのが解る。多分その中でも一番濁っているのは、母の瞳だ。もしかしたら僕の瞳も同じになってしまったかもしれない。
 もう厭なんだ。
 想像の中でアイスピックを母に突き立てる。何度も。何度も。
「いっそ殺してしまえ! 殺さなければお前は一生そのままだ!」

 僕の中の誰かが言う。
「母殺しなんて絶対に駄目だ!」
 僕の中の誰かが止める。
 母親を殺したい。
 母親は殺せない。
 僕は壊れそうだ。
 だから母さん、もう僕を汚さないで。


 僕には父親がいない。母は結婚しないまま僕を産んだのだった。その所為かどうかはしらないが、母は僕を玩具のように扱った。僕の人格はまったく無視で、無闇に無茶で無理な命令をしつづけた。けれど抗うことが僕には出来ない。そういう風に躾られてしまったから、母の言うことには、すべて「はい」しか僕には許されない。
 母は美しい人だった。それは 容姿に限ったことだけでなく、無駄がなくていつだって行動がシャ―プで、そんな様子はアイスピックのようなと表現できるかもしれない。
 そして僕に命令するときは、それに怖さが加わるのだった。命令は短く、ただただ深い瞳で重圧を与え、僕が返事をするまでじっとこちらを覗きこむ。その間に瞳は段々と濁っていくようで、それが僕には耐え切れず、いつも「はい」と言わされてしまう。
 僕は学校か ら帰ると、すぐに階段を上がって、二階に与えられた自分の部屋に入る。鞄をベッドに放り投げ、ブレザ―も脱がずに、ポケットの中から一本のアイスピックを取り出す。アイスピックは輝いている。一点の曇りもなく、出番を待っているサッカ―の交代要員のように、いつだって戦える状態にあった。僕はそこから更にヤスリで丁寧に磨いていく。目を瞑って深呼吸しながらそうすると心が落ち着いた。しゅん……しゅん……という一定の音が、これからの行為のことを忘れさせるのだこのアイスピックを手に入れるまでは本当に心が波立たないことはなかったといって良い。鋭利さが安心につながるから、僕は切っ先をいつも尖らせていなければならない。研き抜かれた銀色はとても静かだと思う。非道く冷たく美しく誠実で潔癖だ。僕もこんなふうに簡単に綺麗になれたら良かった。
 それから僕は服を脱ぎ、母の寝室へ向かう。


 だから僕の逃げ場所は学校だけだった。学校では窓際に座る暗い性根の少年というロ―ルで、理性は僕をコントロ―ルしていた。別に何も楽しくないし、楽しもうとも思わなかった。
 それでも母の濁った目を見なくて済む立派な口実があるだけで、僕は嬉しかった。
「おはよう!」
 前の席の奴が 、前の席だというだけで明るく僕に挨拶をする。学校という場所はみんな揃って無垢で、厭でも自分が汚れているってことを、相対的に自覚させられるから好きじゃない。一匹だけ外側が違う醜いアヒルの子と、一匹だけ内側が違う醜いアヒルの子では一体どっちが幸せだろうか。そんなことは決まっている。後者は白鳥にはなれやしないのだ。
「……おはよ」
「いつもに増して辛気臭いな 」
「放っておいてくれ」
「いつも以上に辛気臭い」
「だから放っておいてくれ 」
「はいはいはいな、と。そうだ」
 そう言うと鞄の中から、彼は一 通の手紙を取り出した。
「これ。昨日渡すように頼まれたんだった」
 受け取るとそれは淡い若竹色の封筒だった 。和紙のような肌触りで、宛先に綺麗な文字で僕の名前が書かれている。
「誰から?」
「学級委員の 眼鏡っ娘 」
「ああ」
「ラブレ タ―って珍しいよな。初めて見たよ
 僕が無言でいると、彼は続けた。
「まったく、こんな人を殺しそうな暗い奴の何処が良いんだか」
 ありが とう。僕もそう思う
 放課後に開いた手紙の中身は拝啓で始まる硬い文章で、ラブレタ―というよりは恋文という表現が合っているような気がした。敬具まで文字を追うと、今日は珍しく母が遅くなると言っていたことを僕は思い出す。
 差出人の眼鏡っ娘は僕が読み終えるのを待っているようで、帰ってはいなかった。教室に二人きりの状況に、さてどうしたものかと、敬具に目を留めたままで少し考えてから、手紙をゆっくりと封筒に戻して、僕から彼女
に近付いた。
「手紙ありがとう
「はい! あ、あの……読んでくれました?」
 俯いていた顔を急に上げたかと思うと、また 俯いて、今度は上目遣いにこちらを見ようとするから、僕は目線を逸らした。彼女は眼鏡の良く似合うさらさらと髪の長い娘だった。細い銀のフレ―ムの眼鏡は多少の知的さを誘ったけれど、それも大人しそうな彼女の印象を一層強くしているだけのものでしかないように見えた。
「うん。もし良かったら今日これからうちに来ない? 親が帰るの遅いんだ」
「はい! 是非!」
 付き合ってもない まま、男の家にのこのこ付いて行くという即答。この娘はもしかしたら馬鹿なんじゃないかと思ったけれど、その感想は根本的に決定的に間違っていると三十分後に解るのだった。


 彼女は見掛けによらず、好戦的で積極的な娘だった。外を歩いているときは恥ずかしそうにして、俯きがちに僕の斜め後ろを歩いていたのにも関わらず、部屋に入るなり態度が一変した。
 眼鏡を外すと、僕をベッドに押し倒してキスをする。そこに言葉は一枚だって入る隙間はなかった。
 僕は目を瞑る。
 柔らかく口唇が触れて、
 ぬるりと舌が絡む。
 荒い息遣い。
 舌先を軽く噛まれる。
 歯並びを確かめられる。
 十秒。
 十一秒。
 十二秒。
 十三秒。
 口唇が離れる。
 同時に閉じた目を開く。
 そこに。
 現れないはずの母がいた。
 突然の出来事に理性は僕を止められない。
「母さん!」
 ポケットの 中で、アイスピックはいつだってスタンバイが完了していた。
 右手でグリップを握る。
 最少の動作で。
 理想的な美しさで。
 僕は母を貫いた。
 つぷりと眼球を破る感触が気持ち良い。
 アイスピックは吸い込まれていく。
 僕は母の顔に想いの深さだだけ銀色を沈み込めた。
「いや――――――」
 彼女が絶叫する。
 それは当たり前だと、冷静に判断できた。
 引抜けば、未練のように赤が伸びる。
 右手が失った左目を押さえ、左手が僕を掴もうとする。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」
 残った右目が僕を射抜く。
 その視線を真正面に受けて、
「あはははははははははははは!」
 笑い。
 僕は果てた。


 目が覚める。
 床に血溜りが出来ていた。源泉は顔を横に向けて前のめりに倒れている人物の眼の辺りのようだった。
 僕は思い出す。
 クラスメイトとのキス。唇を離した。目を開いた。彼女の瞳の中の母。僕は眼球ごと母をアイスピックで突き刺した。クラスメイトの絶叫。
 ……ああ。
「眼鏡を取ったのが失敗だったよ」
 嘆息交じりに呟いた。「眼鏡越し に見ている分には、
殺しはしなかっただろうに」
 瞳に映った自分の幻影、母 親を嫌うことが罪であるのか、面影を色濃く残した顔。右手に握ったままのアイスピックは赤を纏って、そんな僕を映さないでいた。それはとても賢明だ。
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2009年04月16日

フレアスカート・トラップ

 理由なんてない。単に前を行く彼女のスカートを思いきりめくってやりたかったのだ。何故? そんなことは知らない。ただただ無性に立証したくなったのだ。
 腰まで届く黒い髪に長袖の黒いシャツ、そして引きずるように長い黒いフレアスカート。指先だけが黒くない。赤いマニキュアが黒の中に浮かんでいる。
 彼女のことはよく知らない。というよりも以前に逢ったことすらないかもしれない。さらり流れる髪の艶、腰の高さ、ふわり揺れるスカートの長さ、歩幅と速度、それらすべてが一致した後ろ姿で、今の僕の気を惹いているだけにすぎない。そうだ。僕は誘われているのだ。
 彼女はT字路を左へ曲がった。僕の行き先は右。分かれ道で僕は彼女を追い掛ける決意をする。途端、それまで溢れかえっていた金木犀の香りが消えていく。指先に当たっていた風の感触が消えていく。アスファルトを歩く音が消えていく。周りの景色が滲み消えていく。僕にはもう彼女しか見えなくなっていた。
 僕は早歩きになって追いつくと、靴紐を結ぶように屈みこんで、彼女のスカートの裾を掴む。そこで彼女は歩みを止める。僕の右手は彼女が振り返るよりも早く勝手に動いて、思い切りスカートをめくり上げた。
 けれどそこには彼女の足はない。やっぱりと思った。僕は知っていたのだ。長いフレアスカートは決して足などを隠していたわけではないのだということを。
 それからスカートはまるでマジシャンのハンカチのように大きくなって僕を包みこむ。一切が闇。けれど不思議に心地良かった。そして急に引かれる柔らかい布地。僕はまるで出番が来た鳩のように差し込む光に驚いて飛び出すと、眩しさに視覚嗅覚聴覚触覚味覚のすべてが一度狂い、だんだんと正常に戻り、まざまざと異常を突きつけられた。
 鋭い光の元は太陽だった。遮るように手をかざして顔を背ける。目が慣れると若草の絨毯が映った。視線を上げれば満開の桜。豪勢に散る花弁。その向こうには青い空。

 スカートに隠れていたのは春だった。

 落ち着いて耳を澄ませば、川のせせらぐ音が届いた。僕はそちらへ向かうことにする。小川はすぐに見付かって、土筆が並んだ土手の下でさらさらとした姿を僕に見せた。浅くとても透き通って、近付かなくとも底が見通せる。流れは穏やかで、たくさんの桜の花弁をゆっくりと運んでいた。
 川縁には独りの少女が座り込んで、花弁の下で遊んでいる小魚に視線を落としている。
「君は? どこから来たの? 他に誰かいるの? ここは何処なの?」
 少女は顔だけをこちらに向ける。大きな瞳で僕を一瞥すると立ち上がって、スカートに張り付いた桜の花弁をたんたんと払った。僕はその様子を黙って眺め、返答を待っていたのだけれど、少女は先程の僕の問いには答える気はまったくないようで、その代わりに手を伸ばしてきた。僕は少女の手を取ると、その手の冷たさに少し驚きながらも、引かれるままに小川に沿って上流へ向かうことにした。
 川沿いの道は何処まで行っても代わり映えなく、土手の桜が雄大に咲くだけだった。斜め前を歩く少女はこちらを見ようともしない。ただ前だけを見ている。
 同じ景色にも飽きた頃、突然に強い風が吹き、視界のすべてが薄紅になる。その奥に急に彼女は現れた。あのスカートを引きずりながら、僕の前をゆっくりと進んでいる。少女は手を離した。僕は少女のことが気になったが、彼女の後ろ姿を追い掛けることを選んだ。後ろを振り返ることなく走り、スカートの裾を掴む。彼女は止まる。僕はめくり、次の世界へ旅立つ。さよなら。最後に聞こえたのは、少女の声なのか、彼女の声なのか、解らない。

 そして夏が僕を迎えた。

 潮騒がすぐ近くで聴こえる。真っ暗な夜の浜辺に僕はいた。海は堕ちてしまいそうなほどに黒く、夜よりもまだ濃い。潮の香りが漂って、少しだけ汗ばんだ。遠くに焚き火の炎が小さく揺れる。きっとそこに彼女がいると僕は確信した。歩き出せば、足元で砂が鳴る。
 浜辺の道は歩き難かった。靴に砂が入るし、足取りが重い。何より焚き火との距離が減ったような気がしないので、疲れが溜まる一方だった。気が滅入ってしまい、流木に腰をかけて少し休もうかと思うと、そこには先客がいた。春の少女だった。
 少女はこちらを見る。それから立ち上がってスカートに付いた砂を払うと手を伸ばしてきた。僕は流木に座るのを諦めて、少女に手を引かれ進むことにした。少女の手は相変わらず冷たい。
 少女と歩き出すと不思議と焚き火が少しずつ大きく見えるようになった。近づけば近づくほどに、破れたビーチパラソル、西瓜の皮、花火の残骸やらが目に付いてくる。夏が段々と死んでいくように感じた。少女はというと、やはりこちらを見ようともせず、凛と前を向いている。
 やがて焚き火の大きさがはっきりと見える距離になった。櫓のように木材が組まれ、天辺が燃えている。その麓にやはり彼女はいた。ちょうど焚き火から離れるように歩いていくところだった。
 彼女の姿を捕らえた途端に雨が降り出す。ぱららららと上着に当たって軽い音を立てたかと思うと、彼女の姿を消すように一気に豪雨へと変わった。目を開けているのが辛い。焚き火が消えた。
 少女が手を離し、僕は彼女がいた方向へ走り出す。雨が顔を打つ。雨粒が目に入り、一度目を閉じる。再び開くと急に彼女の背中が映った。跪いて彼女のスカートを掴む。雨の隙間を縫って声が聞こえる。また逢えたら良いね。どちらの言葉なのだろうか。

 秋の風が吹いた。

 夕日に包まれながら、一本の線路の上に僕はいた。目の前では走るのに疲れてしまった汽車が苔むすのに任せている。その向こうでオレンジ色の太陽が大きく滲んだ。左に赤い紅葉が乱れ、右に黄色い銀杏が騒ぐ。振り返ると線路の果てには赤と黄色の間で大きな建物が橙に染まっていた。あそこが終着なのだろうか。夕日を背に近づいても、壁にしか見えなかった。目の前に来ても、ただの壁だった。手で触れれば、ひんやりとした冷たい石の感触が伝わってくる。
 線路はここで終わっていた。本来なら白いであろう石壁を右回りに歩くと門があり、さらにそこを潜ると五メートルほどの幅がある階段が現れた。直方体の大きな石から削りだしたようなイメージで、階段の両側は高い壁で覆われている。その所為で階段は非道く暗く、先はよく見えない。上を向くと、高い壁の先端だけが夕日に濡れていた。僕はその階段を昇る。
 暗さに目が慣れた辺りで、段差がない踊り場に到達した。やはりというか、そこには少女が座っている。
 少女は五本の小枝で星を描いているようだった。僕を見付けると立ち上がってスカートを叩き、落ち葉を払った。そして手を伸ばしてくる。
 冷たいと思っていた少女の手は、夏に逢ったときより少しだけ暖かかった。僕らは階段を昇る。独りで歩いていたときには感じなかったが、この階段は一段一段が少し高いので、少女には大変そうだった。一度屈み込んで背中を差し出したが、少女は乗ろうとしなかったので、仕方なく僕は前に出て、左手で少女を引っ張るようにして歩くことにした。跳ねるように昇る少女は相変わらずこちらを見ない。
 階段は急になだらかになった。一段一段の間隔が長いし低い。頂上に近づいた所為で、暗かった階段が明るくなった。階段は左に折れる。曲がると、階段の終わりと共に彼女が見えた。階段の先には大きな夕日が広がっている。まるで彼女はそこへ飛び出そうとしているかようだった。少女が手を離す。勢いよく僕は駆け出した。最後の一段のところで彼女のスカートに手が届く。……。よく聞こえない。

 予想通りの冬だった。

 しんと振り積もっている雪が、朝日を照り返す。独特のつんと鼻の奥を突く冷えた空気。雪はきらきらと光りながら、降り続けている。ひたすらに寒い。息が白い。
 右を見ても左を見ても上を見ても下を見ても一面の白で、どちらへ行って良いか見当も付かない。どちらにせよこのままでは凍えてしまうから、進まないわけにはいかない。だから正面に向かって歩き出したのだけれど、何処を踏んでも処女雪で、たまに振り返ればすぐに足跡を雪が消していく。何を目指しているのか、どれくらい進んでいるのか、何を考えていたのか、解らない。
 途方に暮れて、足を止めた。
 膝に手を置き大きく真っ白い溜息を吐くと、いつの間にか少女が隣で座っていた。僕が気付くとそれが合図のように、少女は立ち上がってスカートの雪を払う。そして手を伸ばす。
 僕はその手を取ろうとして、失敗した。あまりの寒さに凍え、少女の横を前のめりに倒れてしまう。僕の身体は雪に沈み、さらに雪は降り積もっていく。立ち上がることができない。少女は仕方ないと言わんばかりに再び座りこんだ。
 その脇をあのスカートが横切る。少女は立ち上がり、手を伸ばす。その手を彼女が掴む。そして遠のこうとする。僕はかじかんだ右手を必死に伸ばす。届け、届け、と。
posted by sakana at 12:54| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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