2009年05月25日

 巨大で底無しの水溜まりがぽっかりと口を開いているようで足が竦む。海には引き潮がある。それなのに多くの人はどうして飲み込まれるという想像に絡め取られないのだろうかとユキヲはいつも不思議に思っていた。攫われても満ち潮が帰してくれると信じているからだろうか。
 ユキヲの足元で波が遊ぶ。
 恐いわけではない。
 ひやりと冷たくて、身体中凍えそうで、じっとしていられない。
 その姿を見て側を通り掛かった少年は靴を脱ぎ、近づいてきた。
「何をしているの?」
 好奇心に爛々と瞳を輝かせて訊く少年に、申し訳ない気持ちを抑えながら正直に答えた。
「波の誘惑に負けないようにしているんだ」
「これだけ大きな海に勝とうとしているの? 凄いや! 僕も勝つぞー!」
 彼はぱしゃぱしゃと波と戯れながら叫び、ユキヲは海よりも少年の方が手強いと思うのだった。


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2009年05月20日

泥棒

 人の心を盗むという気障な泥棒が夜の街を独り。裏街道を行くでなく、表通りを颯爽と。彼が泥棒だということはこの街に住む人で知らないものは居ない。それくらい有名な泥棒だった。
「君は人気者だね」
ユキヲの言葉にまんざらでもないような笑みを浮かべて彼は言った。
「……仕事がやりにくいったらないぜ」
 彼は心の闇の部分を綺麗に盗む。不安や絶望をすべてでなく一部を。忘れるのでなく軽くするのだ。窃盗罪は被害者が居て成立する。だから彼はいくら盗んでも訴えられることはなかった。
「人の心を盗めるのなら、好きな娘の心を盗んだら?」
「盗んでどうする? 植え付けなくちゃいけないんだろ? まあ言葉の綾だな」
「それじゃあ盗む意味がないね。いくら重いっていったってその重さが恋なんだから、手放す人は居ないでしょう?」
「解ってねえな。恋って奴が一番の闇を産むんだぜ?」
「え? じゃあ盗んだことがあるの?」
「ま、泥棒ていうのは貰うんじゃなくて盗むんだから。それに俺はセラピストじゃあないし……ね」
「世の中には張り詰めた奴が多過ぎるんだよ」という続けようとした言葉も、彼は誰かの闇と共に綺麗に仕舞い込んだ。
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2009年05月13日

カントリィロード

 何処までも続くかに見える田舎道には当然の如く果てがある。本当に底の無い底無し沼の存在が見当たらないのと同じ理由だ。
 ユキヲはゆっくりとしたペースで歩いていた。緩やかな坂道を登っていたから。
 田舎道は田畑を越え、山道に入っていった。これでは田舎道なのか山道なのか区別が難しい。ユキヲはまだ交じり合っていると判断して進むことにした。
 やがて頂上に辿り着き、下り坂を目の前にユキヲは田舎道を諦めた。そのとき空では一羽のトビがピィーヒョロロと鳴いた。
 それはまるで道を歩くことしか出来ない不自由な人間を哀れんでいるかのように響くのだった。
posted by sakana at 12:41| Comment(0) | ミルク | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月12日

鶏冠

 ラムネと名付けられた一羽の鶏が持つ鶏冠はそれはそれは見事なものだった。正面から見た直角さよりも側面から見る前傾の微妙な角度が一番の誇りである。二番目は色。三番目には艶である。その自慢の鶏冠を一振りしてラムネは声を掛けた。
「ユキヲ! 久し振りだな!」
「やあラムネ。久し振り」
 疲れた笑いを張り付けてユキヲが軽く手を上げる。
「何だ何だ! そのだらしない手の角度は! 私の鶏冠を見習いたまえよ!」
「ふわぁ……っと、ごめん。寝ずの番だったからさ」
「そういう時こそ背筋をだな、私の鶏冠のようにぴーんとだな……」
「そうだね。うん。そうだ。よし」
 胸を張ってからユキヲは言う。
「ラムネはいつも元気だね」
「元気? 元気じゃないときだってあるさ。だが……」
 そこで一端区切ってからラムネは片目を瞑り、勿体振ったように続けた。「弱気なときはないな」
「さすがだね」
「さすがだろう」
posted by sakana at 12:46| Comment(0) | ミルク | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月11日

ギタリスト

 儚げで繊細に見える指使いから、それでも確かに力強い音色を奏でてギタリストは唄う。ざわざわと肌が蠢いて、ユキヲは鳥色になった。
「いつ聴いても寿命が縮みそうになるね」
「そりゃあそういう風に弾いてるからね」
「え? じゃあこの調べを聴き続けたら死んでしまうの?」
「そりゃあそうさ。それくらいのリスクは背負ってでも聴く価値はあると思うけれど?」
 ギターを脇に置き彼は腕を組んで、長い髪の間からユキヲの眼をじっと見た。
「ははあ。最高のものに触れるときは覚悟が必要なんだね」
「どうする? 失った寿命は戻らないけれど、もう一曲聴いていくかい?」
 顎に手を当てて強く目を瞑りながら首を捻った。それから困ったような顔でユキヲは言う。「もう一曲だけ」
「物好きだね。じゃあ次は『マイ・フェア・アンドロイド』を」
 とても硬質な旋律が響く中で、音楽を壊さぬようギタリストは心の中でユキヲに告げる。命は必ず亡くなるから命というのさ。こうしている間も君の寿命は確実に減っていく。道を歩いたって同じだけ減っていく。なにをしようと減るのが命さ。だから何処で何をして砂を零すかが大事なんだ。この僕のメロディはその命に必ず見合うものだと僕は信じている。
posted by sakana at 13:21| Comment(0) | ミルク | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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